ジャズ・テナーサックス奏者4傑 ジョン・コルトレーン(2)
「シーン・オブ・サウンド」と形容されたコルトレーンの演奏形態
ウィキペディアを参考にしています。
音を敷き詰め、フォルテシモの速いパッセージで吹くコルトレーンはいつも怒っていると感じさせられるような演奏だった。
1958年再びマイルスバンドに合流。マイルスはソニー・ロリンズと並ぶ巨匠としてコルトレーンを認めていた。
1959年マイルスの「カインド・オブ・ブルー」の制作に加わる。
So What – Jonh Coltrane and Miles Davis
中期の代表作「ジャイアントステップス」を収録したのもこの頃で、独自の演奏を追求する、チャーリー・パーカーの影響から離れる試みだった。
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「Giant Steps」より “Naima”
1960年 マイルスバンドを脱退。マッコイタイナー(pf) エルビン・ジョーンズ(dr)らとレギュラーバンドを組んでツアー。
異色のドラマーエルビン・ジョーンズはその才能がみごとコルトレーンの演奏とマッチして、独特の「うねり」のある個性溢れる演奏形態を築いた。
ちなみにエルビン・ジョーンズが日本滞在中、麻薬所持疑惑をかけられて 日本に長く滞留することになり、日本人を妻とした。
ソプラノサックスで3拍子のマイナーメロディを演奏するコルトレーンの形ができあがり「マイフェバリット・シングス」が最初のヒット曲となった。
エリック・ドルフィーをアレンジャーに加え録音に取り組み「オーレ!コルトレーン」「アフリカ・プラス」「アフリカ・プラス・セッション2」を制作。
ニュー・ヨークのビレッジ・バンガードに多く出演した様子が「ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」で聞ける。
1965年6月、アルバム「アセンション」でフリージャズに転向。
これによりそれまでフリージャズを認めてこなかったジャズファンに多大な衝撃と影響を与えることになった。
激しさ(ファラオ・サンダース)と静かさ(コルトレーン)という二人のテナーサックス奏者をうまく演奏に取り入れていき「瞑想的」と表現された。
記者会見の席でコルトレーンは「聖者のようになりたい」し、「オーネット・コールマン」を最も尊敬していると答えている。
1967年ボルチモアでのコンサートが最後となり同年7月17日、肝臓がんで死亡。